講座報告09 佐伯と土呂久―知られざる亜砒酸公害の歴史を学ぶ

去る9月25日日曜日午後3時から東地区公民館にて、元朝日新聞の記者で、現在記録作家として宮崎大学客員教授もされている川原一之講師による、佐伯市民大学第9回講座が実施された。

結論から言うと、佐伯と土呂久が意外にも亜ヒ酸を通して密接につながっていたという内容だ。

明治時代は砒素が入った硫ヒ鉄鉱をすりつぶして団子にしたものを亜ヒ焼き窯で焼いて、粗製、あるいは精製亜ヒ酸を作っていたが、大正時代には工場での精製がさかんになった。その亜ヒ酸精製工場が大正時代に佐伯に少なくとも4つあり、佐伯市史にはその一つを経営していた宮城正一が公害を起こしたとの記録が残っている。宮城はその後大正9年に土呂久へ招かれ、土呂久での亜ヒ酸製造の立ち上げを手伝い、数か月後には川田平三郎に経営を引き継がせて土呂久を離れた。川田は佐伯から野村弥三郎という亜ヒ酸精製の技術者を連れてきている。佐伯からやってきた宮城、川田、野村の3人によって土呂久での本格的亜ヒ酸製造が始まり、土呂久のヒ素公害の悲劇が始まった。

 

実は大分県の尾平鉱山や木浦鉱山(主に瓜谷、大切、新木浦)は土呂久よりずっと早い明治時代から亜ヒ酸を生産しており、大正9年ごろからアメリカの綿花畑に散布するための農薬に使われる亜ヒ酸の需要が急激に増えたことで、現在の祖母・傾・大崩ユネスコエコパークに登録されている地域にある、土呂久を含む多くの鉱山で亜ヒ酸製造が始まった。それらが亜ヒ酸精製の熟練した技術の集積地である佐伯へ運ばれ、精製された亜ヒ酸は優良な積出港としての佐伯から神戸、大阪方面へ運ばれていたのだ。

 

昭和になって世界的不況で綿製品が売れなくなった一方で、軍用機のメッキなどに必要な錫が取れたことから土呂久と木浦鉱山は軍用機製造をする中島商事が鉱業権を得て、兄弟鉱山になった。同時に亜ヒ酸も副産物として生産され、戦時中は毒ガスの材料としても使われたが、戦後亜ヒ酸の需要は減り、土呂久鉱山は1962年に閉山、木浦鉱山も戦後一旦閉山となった。

そして狭い谷間の集落の住民らが被害を受けた土呂久公害の実態が地元の岩戸小学校教師らによって告発されるのは、閉山後の1971年だが、木浦でも亜ヒ酸製造労働者がヒ素公害で病死したことが1972年に明るみになった。

 

川原さんは今後、土呂久での環境教育や地域活性を推進する方法として、

①公害遺構めぐり
②山の信仰をたずねて
➂山間地農業の歴史散策

などのフットパスコースを構想し、さらに、祖母・傾鉱山地帯の周遊コース(木浦、尾平、土呂久、見立)を提案し、県境を越えた大分と宮崎の交流を促進したいと願っている。

 

荒廃した鉱山跡地に今は何百本もの桜の木が植えられ、春の桜見の名所となっている。

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