講座報告02 宮沢賢治に学ぶ「自然観・宇宙観」と地域づくり(ガイダンス)

【さいき7つの創生:1、5,6,7】
日時:2022年1月16日(日曜)午後3時~5時
会場:佐伯市東地区公民館集会室
講師:日本文理大学名誉教授 杉浦嘉男

まず、なぜ宮沢賢治なのか、という疑問だが、彼は機械的自然観しか提示できない科学知の限界を良く理解していた。むしろ自然を人間の感性で捉え、主観性をもって自然と交流することこそが大事なことだと知っていた。

自分が大事に思っている人と動物のイメージが重なる夢を見たり、実際にマツヨイグサが夕方に咲く話を聞いた後、偶然その花が開く瞬間を見たりする経験をした時、それは心理学者のユングの「共時性」つまり、「意味のある偶然の一致」となって、心にすとんと落ちることがある。かのレイチェル・カーソンも…「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない…と言っている。

さて、賢治は 1896年(明治29年)8月、現在の岩手県花巻市に、この地域で名家といわれるほど 裕福な商家の 5人兄弟の長男として生まれた。この賢治の生涯を5つの時代に区分した説明があった。
① 幼少年期・盛岡中学校時代    (誕生~18歳)
② 盛岡高等農林学校時代・家出   (19歳~24歳)
③ 花巻農学校教師時代      (25歳~29歳)
④ 羅須地人協会 時代    (30歳~34歳)
⑤ 東北砕石工場技師時代・晩年   (35歳~37歳 死去)

 

そして、『銀河鉄道の夜』が生まれるまでに、影響を及ぼしたことが二つあった。ひとつは自分の最大の理解者であった妹トシの死であり、死後樺太まで北上旅行して(黄泉が北方にあるといわれていた)結局会えなかったこと。もうひとつは、初盆(8月中旬)の午後8時、北上川の「イギリス海岸」にたたずむ賢治の目前で、地上の大河「北上川」と天上の大河「天の川」が融合し、“異空間の川”が出現したのを見たことだ。

 

このような自然との密接な交流体験を持っていた賢治はまさに「自然の通訳者」であり、彼が書いた様々な作品は「自然の翻訳書」と言ってもよいだろう。それは、従来の科学者や宗教家、文学者らが描く自然とは全く異なるのだ。

賢治26歳の晩秋に妹トシが24歳で逝去し、深い悲しみに沈んだ賢治は、それを契機により深く 生きることの意味・本当の幸とは何かを生涯を終えるまで“宇宙規模”で探求し続けることになる。『銀河鉄道の夜』は、その証しとなる未完の大作なのだ。

 

この作品に登場する星座・星雲・恒星の名前・特徴・物語などを物語の順にしたがって掘り起こしていくと、実際の夏の夜空(8月中旬)に“銀河鉄道の線路”を描くことができると杉浦先生は気が付く。そして、スライドを通して、“銀河鉄道の旅”の順に“銀河鉄道から見る光景や人物”を眺める、“内なる スター ウォッチング” の美しい世界に受講生をいざなった。

 

こうして『銀河鉄道の夜』という 一つの物語をとおして 宮沢賢治の心の深層に潜む“内なる銀河・星々・渡り鳥”、すなわち、“賢治宇宙の心象スケッチ”を眺めてきたわけだが、賢治個人の宇宙観・死生観が表われている物語は、後世の多くの人々が感動・共感できる物語となり、それは一人ひとりの心の深層に潜む宇宙観・死生観〔コスモロジー〕に“直接つながる物語”としての”神話”とも言えるのではないだろうか。その根底にあるのは、「つながりを大切にする関係性重視の自然観」ということなのだ。

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