講座報告05 鬼頭秀一著「現代日本の新しい自然観」‐鬼頭秀一、内山節他共著『ローカルな思想を創る』(1998農文協)に学ぶ

4月24日の第五回講座の報告です。雨の降る中にもかかわらず、29名の参加者に恵まれ、第一部の講義のあと、第二部で初めてのグループワークも実施した。

 

第一部の講義

環境倫理は半世紀ほど前に環境問題が世界的に認識され始めた時代を背景に生まれた、人と自然のかかわりにおける規範や原理を学ぶ新しい学問だ。

欧米の近代科学技術や知識を明治以降積極的に取り入れてきた歴史を持つ日本も含め、アジア、アフリカ諸国など非欧米の国々に、自然と人間を分離して捉える欧米の環境思想は本当にあてはまるのだろうかと環境倫理学者の鬼頭先生は疑問を持った。

例えば、希少な生物を守ろう(人に身近でありふれた生物は守らなくてよいのか?)、あるいは手つかずの自然こそが価値がある(里山は価値がないのか?)といった考え方で、1970年代からは欧米で動物や自然にも倫理や権利を拡大する思想家が次々と出てきた。

一方、自然を人がどうにかするという発想では環境問題は解決せず、人間側の社会構造も含めて考えないと解決できない事態が生まれてきた。先進国による発展途上国での経済活動が環境破壊や汚染を生み出したり、いわゆる環境的人種差別主義と呼ばれる、米国のアフリカ系住民が集中している地域でのPCB廃棄による汚染が起きたりした。

鬼頭先生は、欧米の環境思想には人が自然を利用し、自然と向き合いながら営まれる生業の視点が欠けていると考える。かつては食べること一つとっても、自分が愛情込めて飼育した動物を殺して食することをしていた。その際は、宗教的儀礼や精神的行為をもって命への敬意を示した。そこには、生きるために動物を食するという機能をもつ経済・社会的リンクと、宗教や文化に根差した動物とのかかわりという、宗教・文化的リンクが一体化したかたちで「かかわりの全体性」があり、それは「生身の関係」だった。一方、現代社会の我々は、スーパーでパックに入った切り身の肉を購入して食べるだけの、経済・社会的リンクしか持たず、これは「切り身の関係」となる。

この視点で考えると、これからの日本の新しい自然観として、
①人間と自然との精神的な部分を含む「つながり」
②歴史性に基づく世代を超えた「つながり」
③そして新しく自由な共同性を目指していくなかで生まれる「つながり」を重視し、その「つながり」における二つのリンクの在り方が問われることになる。

 

言い換えると、より良い環境をいかに持続するかということに加え、生業を通した人と自然のかかわりの営みを、技術や知識のみならず、その精神的豊かさも含めた「生身の関係」の在り方を次世代に継承することが大切になるし、個人に規制を課して環境を守るという近代的個人主義を乗り越え、地域に根差した共同性のなかでのゆるやかなつながりを通した自然資源の持続的共同所有などのルール作りへ移行していく必要がある。そうしたつながりからは新たな自由の形が生まれるだろう。

 

第二部のGW

受講生は5つのグループに分かれ、自己紹介の後、①生業、②遊び仕事や自然の中の遊び、➂シェアリングエコノミーのリストを作り、それらを組み合わせた新しいシェアリングエコノミーを考え、発表した。

生業や遊び仕事は農林水産業やその組合はもとより、狩猟、鵜飼い、養蜂や紙漉き、炭焼き、山菜取り、タケノコ堀り、アユのちょんがけ、竹細工、草鞋づくりなど、沢山の種類が紹介され、シェアリングエコノミーも、車や自転車、部屋やオフィスなどのシェアリングに加え、農機具、介護用品、ベビー用品、土地など多岐にわたった。

発表では、大入島で実際に炭焼きをしている例をあげて炭焼きイベントを提案したり、生業の体験を通して地域経済活性化を図り移住者を増やす提案、また、自然資源を生かしたツーリズムや、一次産業の農機具や土地の共有などの経済資源共有の提案、森林組合が山を人々に貸してキャンプやイベントを企画するなど、各グループの個性的で多様な提案に、改めて複数で知恵を絞ることの豊かさを実感した。

 

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