講座報告08 土呂久のドキュメンタリー番組『山峡に咲く』に学ぶ

8月21日に実施した第8回講座「土呂久のドキュメンタリー番組『山峡に咲く』に学ぶ」は二部構成で、今回の受講生は22名と少なめだったが、初めての方5人を含み、皆さん大変熱心に講義を受けていた。

 

第一部:祖母・傾・大崩山系一帯の地質形成について

まず第一部は、初めに祖母・傾・大崩山系一帯の地質形成の概要についての説明。

おおまかにまとめると、火山活動によって、大崩山周辺にカルデラができ、その隙間から花崗岩の貫入が始まり、大崩山を取り囲むように東西37km、南北32kmの花崗岩の環状岩脈地帯が形成され、この環状地帯に沿って木浦、見立、土呂久、尾平などの鉱山が形成された。

土呂久調査では岩佐講師が土呂久住民に聞き取りをしたところ、亜ヒ酸を生産していた土呂久鉱山に佐伯の漁師らが何十人もやってきて炭焼きをして鉱山労働者らに炭を売って生活していたという事実がわかった。

ドキュメンタリー番組『山峡に咲く』は約50分で、大正9年から始まった土呂久鉱山での亜ヒ酸生産による住民の健康被害と、岩戸小学校教師の告発を経て、訴訟から和解の歴史が貴重な写真や資料で紹介され、現在の土呂久に住むウシの畜産に力を入れる若い世代の思いや、公害だけで土呂久に関心を持ってもらいたくないが、地域を知ってもらう環境教育は歓迎だとする区長の思いなどが語られた。

 

第二部:歴史について

第二部は、新聞記事や佐伯市史、宇目町史、福岡鉱山監督局鉱区一覧などの資料から、以下のことがが判明した。

①大正9年に亜ヒ酸生産を始めた土呂久よりずっと以前の明治後期から大分県側の豊栄や木浦鉱山で亜ヒ酸が作られていたこと

②元延岡藩主の内藤政拳も木浦や見立鉱山などの鉱業権を持っていて、明治時代に木浦から佐伯港までの道路整備に一役買っていたこと

③佐伯市史に佐伯で初めての公害は灘にあった亜ヒ酸精製工場の煙害だったと記録されていたこと

④農薬のために亜ヒ酸の需要が高まった大正時代から、土呂久や木浦鉱山などから運ばれた亜ヒ酸原材料が佐伯で精製され、佐伯の商船会社が佐伯港から亜ヒ酸を大阪方面に運搬していたこと

 

9月18日の第9回講座も土呂久記録作家の川原一之氏がさらに様々な資料を紐解きながら「佐伯と土呂久」のさらなるつながりを明らかにしていく。

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